ADHDが苦手な料理No.1は確実に「カラメル」だ。

自分の趣味はそこまで人にウケが良くない。

ゲームやアニメはあまり人に言う気がしない(話も膨らまないし、変にマウントを取られる)し、音楽も食いつきは良くない。

ギターは人に言うほど弾けない。

 

その点料理は健康的だし、話のトリガーとしてもとっつきやすいし、そのことを話すとそれなりに褒められるので承認欲求も満たせるし、という意味ではいわば「社会的地位の高い趣味」ではないだろうか。

 

もっとも、そこまで打算的に料理を趣味にしているワケではないのだけれども、かれこれ10年くらいは続いているので、この趣味はかなり自分に合っているんだなぁ、とは思う。

 

ところで自分はADHDである。

診断こそ受けていないが、明らかに自分の抱える症状がソレなのである。最近、借金玉氏の本を見てから、インターネットで診断をしてみたが、古の言葉で言えば「お前とはいい酒が飲めそうだ…」的な共感を診断リストに覚えてし待った始末である。

今年中には診断を受けてコンサータでも貰って最強になりたい。

 

なぜこんな話をしたかというと、料理とADHDは結構食い合わせがよろしくない、と切に感じたからだ。

 

多動性や衝動性は肉を生焼けにし、シューを萎ませる。

不注意で火傷や切り傷をしたことは数え切れない。

過活動で要らんことをして最後の最後で台無しに。

 

こういうミスをなんとか経験値でねじ伏せてきたのだが、それでもカラメルソースは未だに作るのを避けたいモノの1つだ。

(「カラメルソースは料理じゃなくて調味料だろ」とか言う指摘は聞かない。)

 

作る手順は極めて簡単。

 

① 鍋にグラニュー糖、水を入れる。(焦げつくと親の仇かと思うくらいムカつくのでテフロンのヤツを使おう)

 

② 強火で水を飛ばす。

 

③ 色と匂いがいい感じになったら完成!!

 

これだけ。

 

焦げたグラニュー糖は何とも言えない香りがするし、自分で作れば苦味や香りは自分の好きなようにできる。

正直な話、安い市販のプリンのそれとは全く風味や味が違うし、量も思い通りなのでカラメルだけ作るときもある(作るのは大嫌いだが、味自体はシロップの中でもかなり好きな部類に入る。よって作らざるを得ない。難儀なものだ。)。

 

なにがADHDにとってネックかといえば、単純にすぐ焦げて下痢みたいな味になるところなのだ。

10秒前には香ばしい匂いが漂っていても、刹那ただの炭化した何かに仕上がっているんだから、自分が錬金術師にでもなった気分だ。

 

そしてそこにADHDのやらかしポイントが入る。

「絶対にそのタイミングにやる必要のないこと」を始めてしまうのだ。

 

自分は音楽を再生しながら料理を作るのだが、「今はDeep purpleじゃなく、確実にD'Angeloだ」と思ったら、わざわざitunesをいじり曲を変えてしまう。それも確実に“やらかしてしまうタイミング”であっても、だ。 

 テレビに坂上忍が写ったらその瞬間にチャンネルを変えてしまう。

LINEに気づいたら返してしまう。

そしてあっという間に邪悪な魂縛がなされた黒魂石の完成というわけである。

 

思い返せば昔から「詰めが甘い」だの「最後で失敗する」だの「火から目を離すな」と言われ続けた。

言うまでもなくそうしたいのだが、何故か他のものに目が移ってしまう。

 

しかし、理由がはっきりすると対処法を自分で編み出してみようと思えるようになった。

簡単なことで、集中して火を見る時間を少なくすればいいのである。

水分を飛ばして砂糖を溶かすのだから、最初にいれる水を少なくすればいいのである。

これで致命的なミスはしなくなった。

同じようなシチューなどの煮込み料理は火を弱めて長い時間をかけるようにした。

低温調理も温度管理に失敗し続けてきたが、30分毎にアラームを設定することで、いい意味で気をそらし、本筋に戻ってこれるようにした。

 

さてカラメルが自分にとってはいかにシンプルかつ面倒臭く、またトラウマのようなものなのかは分かっていただけたと思うが、クドクドと苦手な料理の話をした理由は、そういった“苦手意識”が自分のポテンシャルを高めてくれた面が多分にあるということを最近になって認識したからである。今なお、そういった程度の低いミスをすることもあるが、失敗したことにムカついてある意味病的にそれをブロックするという方法論のお陰でリスクはかなり減ったと思う。

 

確かに「自分が何をできないか」ということを見つめるということは痛みを伴うし、心の中に理不尽な苦しみが立ち現れることも否めない。

ただ、まずは俯瞰的にやれないこと苦手なことを列挙する、自分で認識するということはADHDASD等々の方にとって避けては通れないプロセスだと自分は強く思う。その「出来ないことを分析すること」は自分ができる事を見つけ出す手立てにほかならないからだ。

 

他罰的な恨み節を振りまいても、残念ながら社会が変わることはほとんどないはずだ。(それで社会を変えられるなら凄まじい才能だと思う。)

何よりも『人が出来ることが自分に出来ない』ということは一種の疎外感を生み出し、心は耐えきれなくなる。ただ生まれ持った特性でそこまで追い込まれるのは悲しすぎないだろうか?

同じようなことをするなら、社会を否定するのではなく、寧ろ開き直って自分を徹底的に肯定した方がいい。出来ること、出来ないことをひっくるめて認めることさえできれば、自分の生存意義が見つかったも同然ではないだろうか。

無責任に「自殺をするな」などとは口が裂けても言えないが、「なんか社会は辛いけど、生きていたいな」と思った人は同志としてなんとかやっていきたい。

酔っ払って書き殴った記事だが、発達障害もちの人に少しでもハッとして貰えたら、また「料理してみようかな」と思ってもらえたら、(こっちは望み薄…)これ幸いである。