自主規制の先にある荒野

デヴィッド・バーン、新作の女性アーティスト不在指摘に声明 デヴィッド・バーン、新作の女性アーティスト不在指摘に声明 | BARKS

 

 

Talking headsというバンドを率いていたデヴィッド・バーンという人物については、何の情報も必要ない。重要なのは彼が新しいアルバムをだした時に起こった一悶着と、それに対する対応である。

ことの顛末はこうだ。2018年の三月に自身のソロアルバムをリリースした。様々なアーティストとコラボレーションして作られたアルバムだが、そのラインナップに男性しかいないことが問題視されたらしい。自分自身は「以前には女性アーティストとコラボしたことも多々あるし、ただの言いがかりじゃないかばかばかしい。毅然とした態度で答えてくれるだろう。」と考えたのだが、あろうことか「女性とコラボしなかったことを後悔している。注意をありがとう。」と謝罪したのである。

 よく考えてほしい。アーティストはなぜ音楽を作り、それを発信しようとするのだろうか。

 本当のところはアーティスト本人にしかわからないが、自分としては、「自分を表現して、“良いものを作る”こと」が音楽、芸術の意義だと思う。そして、多くの受け手、―この場合にはリスナー―は『良いもの』を期待していると思う。

 確かに『自分を表現』するには様々な方法があり、その中には社会的なメッセージを込めるというやり方もあるだろう。音楽を通して反戦を歌うもの、社会格差を憂うもの、政府に怒るもの、百様のメッセージがある。

 ただ、“音楽”というフォーマットを選んだ以上、こだわるべきはその“サウンド”ではないだろうか。単にメッセージを伝えたいだけならば、音楽というものを選ぶ必要はあるのだろうか。

 長年、音楽活動を続けてきたデヴィッド・バーンはもちろん“サウンド”にこだわっているのだと思った。そしてベストなサウンドを作り出すために集まったのがそのメンバーで、結果として男性だけになったのだろう、と。

 しかし、“男性しかいないことは誤りだった。謝罪する。”という本人の言葉は「音楽のためではなく、社会的な正当性のためにメンバーを集めるべきだった」という宣言に他ならないのではないか。だとすれば、我々が聞いていたその“音楽”とはなんなのだろう。そして表現者としての本人はそれでいいのだろうか。そんなことに思いをはせていると、堅牢なはずの足元が一気に崩れ去るような虚脱感に打ちひしがれてしまった。

一部の人が「映画には美男美女しかいない!不公平だ!!」と主張するのが一笑に付されていたことを知っているが、そんな時勢を反映してか、スターウォーズの新作にも、アジア人の、お世辞にも美人とは言えない女優がストーリーの流れを断ち切るような形で出演して反響を呼んでいた。勘ぐりすぎだろうか。

そしてこういったケースはあくまでも“自主規制”の形を取っている。「倫理のためじゃない、あえてそうしたんだ、」と言われてしまえば反論のしようがない。それが作品を、表現を陳腐なものにしていたとしても。自分としては、そういった“多様性”のために自ら選択の範囲を、つまり表現の“多様性”を狭めてるんじゃないかと思ってしまう。

「日本映画や韓国映画、インド映画は自国の美男美女しか出てないから排他的なルッキズムレイシズムの温床だ」ということだろうか。考えれば考えるほどチグハグな構造に思えてならない。

思うに表現は徹底的に自由であるべきじゃないだろうか。仮に作品でレイシズムが称揚されてようが、アナーキズム礼賛の内容だろうが、プロパガンダ的な面があろうが、それをどう受け取って、どういうレスポンスを返すかはあくまでも観客に委ねられるべきだ。     

“表現”することの権利は表現者にも、そして、その受け手にもあり、そしてそれは表裏一体のものだと思う。“自主規制”の名の下で表現者を縛れば、受け手も感想や批評、―“表現”に対する“表現”―、ができなくなるだろう。モラルやポリティカルコレクトネスのような「正しい表現」を規定する危険性はそこにある。

こうした“自主規制”の現況とは「ネットの意見」にあると考えている。SNSが発達する前は、例外こそあれ、「ネットの意見」って基本的には世論でも、あるいはオフィシャルなものでもなく、本音と誇張が入り混じった“チラシの裏” “便所の落書き”だと大抵のマスメディアや大衆は捉えていた。

その一方、圧倒的に母集団が増えた現在でも、その質は変わってないのにもかかわらず、その扱われ方は一変した。様々なマスメディアが「ツイッター急上昇ワード」とか「バズり特集」のようにこぞってネットのプレゼンスの高まりを伝えるようになったのがその証拠だ。

そしてプレゼンスの高まりを伝えれば伝えるほど、プレゼンスが高まっていくという構造がある。いよいよ大小問わず、一般企業もその反応を敏感に感じとろうと躍起になっていることは、そういった企業のメディア戦略への力の入れ方を見ればわかるはずだ。

そして「ネットの意見」に過敏になることは、すなわち、ネットの意見に“従属的”になるということだ。全く論理的でない意見や批判であっても、「ネットの意見」が支配的な下では、謝罪の一つでもした方が安上がりなのだ。仮に十全に正しい反論をしたところで、ビジネス的には何の意味もない、むしろステークホルダー的アプローチでは大損の可能性もある。脳死状態で“自主規制”をするのがリスクマネジメントの観点では正しいのだ。その結果、『全く論理的でな』かったはずの「ネットの意見」って結果論で“正義”に摩り替わる。ある種の「成功体験」になる。

つまり「正義だから勝ったのだ」ではなく「勝ったから正義なのだ」にシフトするということだ。

そしてすり替わった“正義”に則り、世にはびこる「巨悪」を葬ろうとする、これを無間地獄のように繰り返す。何度も。“正義”は両親などとはかけ離れた、単なる大衆心理の権化へとおぞましく無情な変身を遂げる。“匿名”や“誇張”、“虚妄”といったインターネットのもつ特性を考慮せず、従属的な“自主規制”を行ったことによる帰結だ。

 

 

安易な「ネットの意見」に従ってはいけなかった。実態のない「ネットの意見」に腰を据えて反論するべきだった。お手軽な「成功体験」を絶対に与えてはいけなかった。

そして「ネットの意見」に則った、一義的な“正義”を求め続けた結果、振り上げた刃は気づかぬうちに喉元にまで迫っている。

“正義”の名のもとに“私刑”を執行しようとする動きがSNSで見られている。法やモラルに反する発言に対して、「違反報告」を行うことにより、発言を封殺できることが一般化してしまったのだ。

あの人は間違っている」、「不愉快な発言だ」と思う人たちが一斉に申しだてをした結果、報告された人は、サイトの運営によりアカウントを消去される。その発言も存在もインターネット上から存在しなくなるのだ。これはインターネットにおける“私刑”、また“死刑”執行ではないか。今となっては、どんなやり取りが行われ、どんな“罪状”により刑が執行されたかすらわからない。“正義”の相互監視ネットワークはさながらパノプティコンのようだ。万人は“表現”を捨てた。そのことはデヴィッド・バーンの一件に明らかだろう。  

もはや自由な空間など存在しない。“正義”と“自主規制”に支配された荒涼なる世界が広がるのみだ。