ガイジなので散歩をさせられている。

共同通信社の社屋がこんなにデカイとは。f:id:mrkmyng:20190422161313j:image

無学なので何をしてるのかは知らない。

どうせ、ちょっと偉ぶったブン屋ども下賤な眼差しで次の標的を舌なめずりでもしながら品定めしているのだろう。

いや、『偉ぶったブン屋』などという言い方は無意味なトートロジーのようなものではないか。

「世論」であり「正義」であり、「権威」であり、「弱者」である彼らは、その特権意識を振り回すことが仕事なのだから、言ってみれば偉ぶることが仕事なのであるのだから。

というかこんなバカでかい社屋が必要なのか?

足で駆けずり回って、至るところで「共同通信社」という紋所を見せつけてればいいではないか。空を穿つような硝子と金属の構造体だが、その不格好さと威圧感、そして何より画角に収まるまいまいとするふてぶてしい図体には辟易する。

 

などという難癖を捏ね回してしまうのは、白痴のように当てもなく徘徊せざるを得ない今の状況が耐え難い苦痛だからだ。

端的に言えば金も持たずに電車に乗った結果、スマホ会社説明会の資料のみを手に持った男が都内某所に取り残されているというわけだ。

 

ここ何ヶ月か月1のペースでこの不本意な散歩を行っている。

20km近く歩いたこともある。

そうなると、もはやそれは散歩ではなく行軍や行脚の域だろう。

しかもそれを繰り返している。

自分で書いていて虚しくさが去来するばかりだ。

 

現段階で身分を証明できるものを何も持ち合わせていないことがそうした虚無感に拍車をかけている。

スーツを着込んだビジネスマンの足取りの確かさには目的と意志が明確に存在していて、空間や時間の移ろいがそれらに介在する余地はない。

行動は目的の付随物であり、つまり意味もなく街を歩いたりはしないのだ。

ハリウッドザコシショウのネタに『ヤバいサラリーマンのモノマネ』というものがある。

最大限の不条理を最小の手数で表現していて一時期ハマっていたネタでかなりハマった時期がある。

 

コシショウの「サラリーマン像」がただ歩くだけということにも大いに笑ったのだが、その実、所属と承認とトレードオフの『歩く』ことがサラリーマンの本質なのかもしれない。

 

都内を歩いているとホームレスによく出くわす。

大概が寝ているか本を読んでいる。

稀に歩いているのを見かけたりするが、足取りと視線がまるで違うのだ。

年寄りが多いし、身体的な相違があることは言うまでもない。

しかし、その足取りには目的がない。

視線には意志がない。

脚が動いているだけであり、水晶体を通して網膜に光が届いているだけの現象に過ぎないのだ。

 

何度も同じミスを繰り返し、同じような結果に終着するような人間に承認が与えられるとは思えないのだ。

スマホのケースに1000円でも入れればいい。

オートチャージをつければいい。

 

そしてそもそも、携帯を持っているのだからパスモオートチャージに切り替えられるのではないか。

出来ないとしてもそれくらいのことを思いつくべきだったのだ。

また長々と歩いて時間を浪費した自分は白痴でしかないのだと確信した。

白痴枠で共同通信社に籍だけでいいので置いてほしい。

ほんとに頼むよ。