“無敵の人”の境界線
まずは非常に良い記事なので読んでほしい。
自分はパッサパサなパンとかそういったモノを水も何もなしで食べることが多い。度々喉につまりかけたりもする。
が、不思議なことに「そういうものだから」という思い込みで自然なものだと思っている。
だから、テレビや何かで口の中の水分持ってかれるわ!!」みたいなシーンを見て「いやそういうもんじゃん」と無性に覚めてしまったのを覚えてる。
簡単なことで水を飲めばいいだけの話なんだがその考えが出てこない。
よくよく考えれば自分も社会性のなさを様々な人々に諌められ続けてきた。
親であったり、バイト先であったり、学校であったり、知人であったり。
自分は社会性というものを成果主義と捉えているので、障害者特性を勉強や知識、スキル、職といったもので乗り越えられるものだと考え勉強をしてきたし就職をしていかなければと考えている。
これまではたまたま社会の意図と上記の“思い込み”がうまく合致したため、なんとか社会性を保ててきた。
ただ、ここにきて「あ、これ詰んだな」感をひしひしと感じているわけなのである。
社会が求める勤勉さは“偏差値60を超えること”でも“TOEICの点数”でもなく、学力が担保する“社会性”でしかないのではないか。
ろくに考えもせず「写させてよ(笑)」と騒ぎ回るやつや、出席だけして延々と寝てる筋肉等は往々にして“社会性”の塊である。
そういった奴らとそうじゃない奴らの統計でも取って年収を調べてみればいい。
散々言って「年収を調べてみればいい」だから、もはや社会性とは自分にとって強迫観念や呪縛みたいなもんだろう。
ただ生きてる状態の自分なんて誰も認めてくれないし、結局は社会が求める生き方でしか生きられない、つまり死しか待っていないのでは、と考えると絶望しかない。
考えれば考えるほど境界線なんてあやふやで、いつ踏み越えてもおかしくない。
誰にとっても他人事なんかじゃない。
社会によって不可視化された「ツケ」を払わされるのは同じく社会だ。
臨界点を超える前に本気で向き合うべき問題であることは明確だ。