犬の動画に生かされ、また、殺される。

まず最初に世界で最も尊いツイッターアカウントとそのツイートを紹介する。

これだ。

このアカウントは俺とは違い、生き物を愛し愛されるために生まれた存在である“コーギー”の動画を定期的にツイートするアカウントである。

なんと素晴らしい。 ゲーテは今際の際に『もっと光を』と発したそうだ。光の正体が「corgis」であれば、その死はより救われたものになっただろうと今、勝手に思った。

またこの「corgis」は度々、下記のようなアカウントをリツイートする。

瞬いている。

俺は一日おきくらいで、「もう無理」と「割とイケんべw」を繰り返す体質だ。 そんなとき「corgis」を見ること。 そして、「犬を飼う」を考えること。 これが物質世界に留まる理由になっている。

『「犬を飼う」を考えること』とは、とどのつまり、メスのコーギー(名前はアレクサンドラかペイジに決まってる)と、どのように生活をするかということだ。

朝5:00くらいに起きる。 仕事に行く。 飲み会を「犬が待っている」と言って断る。 自分とアレクサンドラにご飯をあげる。 ゲームかギターでもやろうとする。 犬が構ってほしそうにしてる。 ワシャワシャと柔らかな毛を揉みしだく。 気がつくと10時だ。 多少好きなことをしたあとでベッドに向かう。 そして寝床に入り、安らかな疲労感とともに、 『週末はドッグランにでも連れて行こうかな』 『休みが取れたら新潟にでも行って雪を見せてあげよう』 こんなことを考えつつ眠る。

非実在コーギー生活”を繰り返し咀嚼し反芻すると、不思議と生きていく意味と可能性、実感がぼんやりと浮かび上がるのだ。

犬を飼えば、少なくとも犬が死ぬまでは俺が死ぬわけにはいかない。犬には俺しかいないのだから。

しかしながら、そんなそれなりに実現可能性の高い未来を仮定すればするほど、俺に対する敵意が鎌首をもたげる。

犬は賢い。が、我々の内心を高いレベルでは理解し得ない。そして、それに対して文句も言えない。 そんないたいけな存在に、一個人の“生きる理由”を充てがうことが許されるのだろうか? 確かに犬はそんなことに気づかないだろうが、あまりにアンフェアな構造ではないか?

或いは、表面的な愛嬌によって庇護対象となっている犬を飼う事自体が、俺を苦しめ続けてきたルッキズムに加担することではないか?

また、そんなことを考えつつ犬を飼おうとしている人間が、一つの命の生殺与奪を握る責任を負うことはできるのだろうか?

そもそも、金銭的にもADHD的にもそんな生活が可能なのか?

砂上の犬(“砂上の楼閣”の犬版)と化した妄想に論理で組み伏せられ、現世に抱いた僅かな希望は潰える。

ツイートを見かけるたびに、在りもしない犬に生かされ、また、殺される。

宮藤官九郎に対する完全なる偏見

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この一枚だけで苦虫のミックスジュースでも飲み干したような顔になってしまう。

見かけた瞬間にヤツのしたり顔が目に浮かばないだろうか?

 

 

こういう二枚目と三枚目を自由に行き来できるアピールをする男はたいていどちらにも振り切れてない。

本気で美味いとも思っていない、味の違いなどわからないスコッチの薀蓄をしたり顔で吹聴する、それがこういう男の本質なのだ。

 

ただ、こういう気取ったところは誰にでもあるもので、特別そこを責めるつもりはない。

 

「カッコつけたがり」なのにそれを必死こいて隠すみみっちさがシラケるのだ。

この広告で言えば、さんざんバンドマンだ映画だの誇示しときながら、銭湯でカジュアルダウンしようとしてるところだ。

実際、映画人として圧倒的な知名度を持ちつつ、バンドもそれなりに成功してるのだから、思う存分誇示する権利はあるはずだ。

にもかかわらず、「こんなハイソな文化人なのに、銭湯に行っちゃいますよ」みたいな自己演出が鼻につく。

そんな『ハイソ』なものの当て馬として充てがわれた銭湯が不憫である。

 

まあおそらくこういうしょうもない広告は代理店の仕業に違いないのだが、それでも、その『仕業』はかなり正確にこの男の本質を見抜いているように思える。

この底の浅い男は確実にこんなポスターを駅やなんかで見かけてご満悦。連れ歩いてる頭のゆるそうな女に見せつけながら、阿部サダヲとの内輪ネタを楽しそうに言いふらしている。そうに決まってる。悪い意味で一貫したストーリーがありありと浮かんでくる。

オリンピックが来たら、セックス特集やらゴシップやらと一緒にこうした中吊り広告が一掃されることを願ってならない。

 

 

 

ちなみに宮藤官九郎の映画は舞妓haaaaaaaaaaaaaaaaaaaan!!!!!!!!!!しか見たことないし、なんだか見てるのが恥ずかしくなって最後まで見られた試しがない。(3勝3敗)

 

 

あと、この動画。


グループ魂 NO! NEW YORK.wmv

 

 

 

 

 

 

 

別にBOOWYが特段好きなわけでもないけど、やっぱり恥ずかしくなる。

それでいて面白くないし、面白くないことを開き直ってそうでもある。

俺の中の宮藤官九郎イメージはポスターと舞妓のやつとNO NEW YORKの悪ふざけで出来上がっている。

よって偏見なのだ。

 

 

 

 

でもクドカンに成れたら、成る。

ノータイムで成る。

楽しそうだもん。

クドカン』だよ?

そんなあだ名で退屈することはないでしょ。

 

 

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

クドカンになりてーーーーーーー

あまちゃんつまんねーーーーーーーーーーーー

アニメ「ピンポン」を割と今更見ました。

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卒論は書けねぇがこういうレビューだと無限に書けてしまう。

本編見る時間と合わせてどんだけ費やしてるんだ。

それはともかく、短い文章がかけたのでFilmarksと合わせて供養しておく。

 

ちなみにFilmarksのアカウント。

https://filmarks.com/users/21stC_schizoid

 

 

 

 

 

 

11話をイッキ見してしまった。

ちなみに、原作、実写、アニメ映画は知らん。

 

 

 

 

 

 

努力と才能、成功と挫折、勝利と敗北、理想と現実。

シビアな二項対立が幾度となく繰り返される中で、登場人物はそれぞれの“卓球観”ひいては人生観までも卓球から見出していく。

 


こうした答えのない輪廻のような問いに立ち向かう高校生と周りの大人たちの葛藤をカラフルにビジュアライズ出来るのは湯浅政明だけなんじゃないかと思う。

本当にこの監督はそうした“宇宙”をアニメーションに見つけ出すことに長けていると感じた。

 


最初はキャラクターの癖のあるパーソナリティや、卓球というあまり身近ではないスポーツが題材であることに戸惑っていた。

 


しかし、卓球の楽しさを体現したようなダイナミックなアニメーション。

そして努力と才能、敗北や挫折という苛烈な現実に揺れ動く登場人物の感情描写。

 


いわば青春そのものが持つ爆発的なエネルギーが、監督の持ち味である莫大なカロリーとスピード感のあるアニメーションで押し寄せてくる。

そうかと思えば、キャラクター同士の何気ない会話シーンもグッとくる。

学生時代特有の午後のまどろみのような心地よい遅滞が繊細で味わい深いのだ。

 


そんなこんなで数話見るつもりだったのが、結局最後まで続けてみてしまった。

ピンポンは映画原作アニメ共々、長年大絶賛されていて「とはいえスポ根だろ」とも思っていたのだが、見事に認識が覆った。

青春などという鼻白む語彙を持ち合わせていない自分にも、「SLAM DUNK」にならぶお気に入りのスポーツ作品ができた。

労働中の妄想:【B級グルメ】

なんというか「文字を書くぞ!!!」というように意気込むとハードルが上がりすぎて、全く文字を書かなくなるという本末転倒差なので、もう少しくだらないことを書いていこうと思う。

思考の整理というやつだ。

まったくもって脈絡のないことを書こう。

 

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B級グルメ”という言葉の響きが好きになれない。

この言葉が人口に膾炙し始めて10年位たち、もはやこのワードが持つ訴求力というものはとうに薄れているように感じる。

しかしながら、地方ローカルの時の止まったグルメ番組で、極稀にこの言葉を見かけるたびに苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

 

受け付けない理由は数あれど、その理由の最たるものの一つは、出自不明の単語のくせにしれっと普通名詞のように、いつの間にか我々の日常の語彙の中に闖入している点である。

『”B級グルメ”はいつから用いられた言葉なのか』『それ以前は”B級グルメ”をどう呼称していたのか』『そもそもこの言葉の定義とはなんなのか』――こういう問を与えるとこの単語の侵略者のような唐突感、不気味さが浮き彫りになる。なる?なります。断定したのでなるんです。なるのである。

 

 

というわけで文明の叡智であり、知性の敗北であるWikipediaを見てみよう。気に病むことはない。俺もお前も敗北者なのだから。

 

B級グルメは、1985年~1986年頃から使われるようになっている用語・概念である。外食の他に、家庭料理の場合もある[2]

 

『最初に登場したのは1985年とされる[4]。フリーライター田沢竜次が雑誌『angle』に連載した記事をもとに、『東京グルメ通信 B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)が刊行された。そして1986年に文春文庫ビジュアル版田沢竜次もメインライターとして参加した『B級グルメ』シリーズが刊行され、この用語と概念が広がった。』 

 

B級グルメ - Wikipedia

 

らしい。

なんとその軽薄で作為的な響きとは裏腹に、四半世紀を有に超えるキャリアを持っていいたという。

しかも85年に出てきて一年も立たずに使われるようになった単語だという。

 

ただ、ほんとうの意味でこの単語が定着し始めたのはどう考えても、ここ10-15年といったところだろう。

別のネットの記事を引用すると、

 

B級グルメによる地域振興にも詳しい新潟大学・田村秀教授は、「街おこしのネタとして、(B級グルメを)掘り起こそうという動きがある」として、こう指摘する。

「実は1990年代にも各地では小規模なイベントはありました。今の盛り上がりは2006年にあった『B-1グランプリ』が火付け。地元では当たり前すぎた料理だったのが、実は、地元をPRする有効な資源ということに気づいた。温故知新というわけでしょうか、伝統的な料理が見直されているようです」』

 

(地元の名物「B級グルメ」 一大ブームになった理由 https://www.j-cast.com/2009/11/25054663.html

 ということだ。やはり、単語として陳腐化するに至ったのはごく最近の言葉ということだ。しかしながら、85年にこの単語が誕生したとして、20年以上の期間を開けたあと、いかにしてこれほどまでのムーブメントになったのかまではわからない。

 

そして、最もよくわからないのは、こと”B級グルメ”の火付け役とされる「B-1グランプリ」の主張だ。

 

『B-1グランプリが「B級グルメの日本一を決めているイベント」と思われていることでしょう。しかし、B-1グランプリはいわゆるB級グルメとは関係ありません。』 

 

 B級グルメB-1グランプリ 

 https://b-1grandprix.com/%EF%BD%82%E7%B4%9A%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%81%A8%EF%BD%82-%EF%BC%91%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA/

 

驚くべきことに、火付け役とされた「B-1グランプリ」はB級グルメと関係がないイベントだと主張しているのだ。

 

 B-1グランプリのBはブランドのB』 

 であり、

現在は「B級グルメ」「ご当地B級グルメ」の企画についてのご協力は全てお断りしています。』 

 のだという。

 

近頃は”B級グルメ”という単語と”B-1グランプリ”という単語を引き離そうとしているらしい。

しかしながら、もともと意味の確立された”B級グルメ”という単語に乗っかりながら(記事内でも80年代のブームに触れている)無関係だと言いはるのは無理があるのではないだろうか。

思ったより言い訳がましいというか、やたらとしたたかというか。

 

何れにせよ、この単語の持つ独特の不快感の一端がわかった気がする。

単語の持つセルフイメージとその実態の間に乖離があり、定義が不明瞭にも関わらず声高に喧伝されてしまったがゆえに、なんとも浮ついた空虚さと、反比例するかのような差し出がましさみたいなものが感じ取れてしまうのではないか。

 

ここまで書き上げたとい頃で、単純に鼻につくビジネスの臭い、そして、”B級”という相対的な表現の裏にある、都市中心主義が気に食わないのが一番の要員だという思いが突如として去来したが、バイト中の1時間の妄想と、文字に起こす1時間半がすべて水泡に帰すのは避けたいので、気が付かなかったふりをする。

映画「名探偵ピカチュウ」かつて「ポケモンキッズ」だった奴らに捧ぐ映画

おすすめポイント

 

  • ポケモンをやって楽しめた記憶がある。
  • アニメ、または映画もみたことがある。
  • 癒やされたい。

 

まず、自分がどれほどポケモンに思い入れがあるのか、またはないのかを説明する。

 

 

 

  1. ゲームはダイヤモンド・パールまで
  2. アニメはアドバンスジェネレーションまで
  3. 映画は数作見たことがある程度

 

 

といった具合だ。

筆者の世代の中ではかなり平均的な知識と興味ではないかと思う。

一言で言えば

「子供の頃ドハマリしてそれっきり」

という感じだろうか。

映画館に来ていた客層も世代から察するにそんな感じだと思う。

 

今作はそういう“ポケモン卒業世代”に的を絞りに絞った作品だ。

 

自分は性格が悪いのでいくらでもこの映画の悪い点をあげつらうことができる。

 

脚本や設定が完璧かといえばそうではない。

ちらほら矛盾や無理を感じるし、ありがちといえばありがちなシナリオだとは思う。

そこまで冊子の良くない自分ですら、オチが最初に予想出来てしまったくらいだ。

申し越し深堀りしてほしかった設定も多々ある。

平たく言えば、ポケモンを全く知らない人間が楽しめる映画とは到底言えないのだ。

 

しかし、逆説的に言えば、ポケモンに少しでも愛着がある人間にとってすれば、最高のファンムービーであるとも言えるのだ。

 

この映画がそんな“ポケモン卒業世代”を狙い撃ちしてるということが、先ずキャラデザに表れている。

 

トレーラームービーなどでポケモンがお披露目となったとき、なかなかその反応は様々だったと記憶している。

「リアルで違和感がない!」「かわいい!」という意見もある一方、

「本物の生物のようで気持ち悪い」「グロテスクで怖い」という反応も多々見受けられた。

 

 

 

 

 

 

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初めて見たときは毛皮感や肌感が最高に気持ち悪いと思ってしまった…

 

 

 

 

 

 

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バリヤードはそもそも気持ち悪いポケモンなので最高に気持ち悪くて安心した。

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけた話をすればかなりルックスがキモいポケモンもちらほらいる。

爬虫類系のポケモンは肌の質感がかなり現実の生物みたくなっていて、なんとも生々しい。

 

ただ、その生生しさはかなりいい方向に行っているのではないかとも思う。

例えば3DCGを使いもっと親しみやすくアニメチックにした場合、恐らく大人の鑑賞に耐えないチープさが出てしまうと思う。

如何に実写と現実世界を溶け込ませ、境界線をなくしつつ、ポケモンに親しみを持てるようにするか。この点に関してはある種一つの正解にたどり着いていた。

キモいのに愛らしく、CGでありながらそこに居そうなギリギリのラインをちょうど捉えている。

 

またシナリオも“ポケモン卒業世代”にはぴったりなものだったと思う。

父親を探すという個人的で小さな思いが、段々とより大きく世界を揺るがすような大問題へと波及していく。

シンプルな構造ながらも、これはまさしく「ポケモンのストーリー」そのものだ。

 

主人公は思春期の少年で、ポケモンとともに旅をすることで何かを掴み取ろうとする。

そのなかで、困難や悪意に触れることによって、自己と世界が構築されていくのだ。

つまりストーリー全体が成長の儀式、イニシエーションなのである。

こうしたコンセプトの一貫性が長く強い人気を持つ秘訣なのだろう。

 

ポケモンの実写化というアクロバティックな題材でありながらも、その実、“ポケモン”というコンテンツから一切のブレがない。

一貫性を保っているからこそ、ポケモンを経験した世代にとって、非常にしっくりくるものになっているのだと思う。

 

これを実現できたのは制作陣のポケモンに対する深い理解だと思う。

ガーディが警察に連れられていたり、コダックの頭痛持ちだったり、アニメやゲームの設定をリスペクトとした作りになっているから、観客は「ポケモンがいる日常」を思い浮かべることができる。

最初にポケモンをプレイしたときのような、誰をパートナーにしようか、どんな技を覚えさせようか、そういった“トレーナー”だったときの記憶を思い出させてくれるのだ。

 

 

映画「手紙は憶えている」認知症の老人が立てた復讐計画。友人が記した手紙は何を語るのか。

おすすめポイント

 

  • 重いテーマを扱った作品が好き。
  • 一風変わったサスペンス劇に翻弄されたい。
  • 映画には美しい音楽を求める。

 

当てはまる人は少々お付き合い頂ければ。

 

 

 

 

 

あらすじ

 

男はベッドの上で目を覚ました。

不安げに妻のルースを呼ぶが、返事がない。

おぼつかない足取りで部屋の外に出ると看護師やヘルパーや他の入居人がいる。

ヘルパーに妻の所在を聞くが、彼女は既に亡くなっていると話す。

 

認知症を患う彼の名前はセブ。ヘブライ語で狼の意味だ。

 

そんな中、彼の友人マックスは「あの計画は覚えているか?」と語りかけるが、セブは首を横に振る。

「まあいい」とマックスは続ける。記憶が定かな頃にセブからその全てを聞いていたようだ。

 

そして、ルースの喪があけたその日ついに計画を実行に移す。

その計画とは家族を殺した元ナチスの男“ルディコランダー”に報復することだった。

その男の顔を覚えている数少ない人物の一人であるセブは、僅かな記憶とマックスが書いた手紙を頼りに復讐の旅路へと発つのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想

 

正直こんなにヘヴィな話だとは思わなかった。

あまり挙げられてないが、胸糞映画としてはトップレベルのものではないだろうか。

なんとなく「認知症のジジイが、何十年ぶりにナチスに報復する」なんて話だから、メメントのようなスマートでスリリングな話だと思っていたのがそれに拍車をかけた感もある。

 

この作品はどちらかといえばドラマ寄りの作品だ。

監督のアトム・エゴヤンアルメニアを亡命してきた両親を親に持っている。

そのアイデンティは作品にも影響を与えていて、アルメニア人虐殺について扱った作品も撮っている。

そうした影響だろうか、ホロコーストを題材にしたこの作品にも監督のユダヤ人への強い共感や憐憫、義憤などが感じられる。

 

そうは言いながらも、復讐を果たそうと詰め寄るシーンの緊張感はすごい。

マイケル・ダナという映画音楽家が作中の音楽を担当しているが、オーケストラが奏でる不協和音を活かした現代音楽が、セブのおぼつかない足取りと相まって、非常におどろおどろしい印象を与える。

 

なんとなく結末がわかってしまうような展開なのは、サスペンスとしては難点だが、ストーリーとしては重みがあってよかったと思う。

被差別者の懐き続ける怨嗟や悔恨というものは、外部の人間にはわかりにくい。

そういったものの一端がわかるのではないだろうか。

ガイジなので散歩をさせられている。

共同通信社の社屋がこんなにデカイとは。f:id:mrkmyng:20190422161313j:image

無学なので何をしてるのかは知らない。

どうせ、ちょっと偉ぶったブン屋ども下賤な眼差しで次の標的を舌なめずりでもしながら品定めしているのだろう。

いや、『偉ぶったブン屋』などという言い方は無意味なトートロジーのようなものではないか。

「世論」であり「正義」であり、「権威」であり、「弱者」である彼らは、その特権意識を振り回すことが仕事なのだから、言ってみれば偉ぶることが仕事なのであるのだから。

というかこんなバカでかい社屋が必要なのか?

足で駆けずり回って、至るところで「共同通信社」という紋所を見せつけてればいいではないか。空を穿つような硝子と金属の構造体だが、その不格好さと威圧感、そして何より画角に収まるまいまいとするふてぶてしい図体には辟易する。

 

などという難癖を捏ね回してしまうのは、白痴のように当てもなく徘徊せざるを得ない今の状況が耐え難い苦痛だからだ。

端的に言えば金も持たずに電車に乗った結果、スマホ会社説明会の資料のみを手に持った男が都内某所に取り残されているというわけだ。

 

ここ何ヶ月か月1のペースでこの不本意な散歩を行っている。

20km近く歩いたこともある。

そうなると、もはやそれは散歩ではなく行軍や行脚の域だろう。

しかもそれを繰り返している。

自分で書いていて虚しくさが去来するばかりだ。

 

現段階で身分を証明できるものを何も持ち合わせていないことがそうした虚無感に拍車をかけている。

スーツを着込んだビジネスマンの足取りの確かさには目的と意志が明確に存在していて、空間や時間の移ろいがそれらに介在する余地はない。

行動は目的の付随物であり、つまり意味もなく街を歩いたりはしないのだ。

ハリウッドザコシショウのネタに『ヤバいサラリーマンのモノマネ』というものがある。

最大限の不条理を最小の手数で表現していて一時期ハマっていたネタでかなりハマった時期がある。

 

コシショウの「サラリーマン像」がただ歩くだけということにも大いに笑ったのだが、その実、所属と承認とトレードオフの『歩く』ことがサラリーマンの本質なのかもしれない。

 

都内を歩いているとホームレスによく出くわす。

大概が寝ているか本を読んでいる。

稀に歩いているのを見かけたりするが、足取りと視線がまるで違うのだ。

年寄りが多いし、身体的な相違があることは言うまでもない。

しかし、その足取りには目的がない。

視線には意志がない。

脚が動いているだけであり、水晶体を通して網膜に光が届いているだけの現象に過ぎないのだ。

 

何度も同じミスを繰り返し、同じような結果に終着するような人間に承認が与えられるとは思えないのだ。

スマホのケースに1000円でも入れればいい。

オートチャージをつければいい。

 

そしてそもそも、携帯を持っているのだからパスモオートチャージに切り替えられるのではないか。

出来ないとしてもそれくらいのことを思いつくべきだったのだ。

また長々と歩いて時間を浪費した自分は白痴でしかないのだと確信した。

白痴枠で共同通信社に籍だけでいいので置いてほしい。

ほんとに頼むよ。