労働中の妄想:【B級グルメ】

なんというか「文字を書くぞ!!!」というように意気込むとハードルが上がりすぎて、全く文字を書かなくなるという本末転倒差なので、もう少しくだらないことを書いていこうと思う。

思考の整理というやつだ。

まったくもって脈絡のないことを書こう。

 

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B級グルメ”という言葉の響きが好きになれない。

この言葉が人口に膾炙し始めて10年位たち、もはやこのワードが持つ訴求力というものはとうに薄れているように感じる。

しかしながら、地方ローカルの時の止まったグルメ番組で、極稀にこの言葉を見かけるたびに苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

 

受け付けない理由は数あれど、その理由の最たるものの一つは、出自不明の単語のくせにしれっと普通名詞のように、いつの間にか我々の日常の語彙の中に闖入している点である。

『”B級グルメ”はいつから用いられた言葉なのか』『それ以前は”B級グルメ”をどう呼称していたのか』『そもそもこの言葉の定義とはなんなのか』――こういう問を与えるとこの単語の侵略者のような唐突感、不気味さが浮き彫りになる。なる?なります。断定したのでなるんです。なるのである。

 

 

というわけで文明の叡智であり、知性の敗北であるWikipediaを見てみよう。気に病むことはない。俺もお前も敗北者なのだから。

 

B級グルメは、1985年~1986年頃から使われるようになっている用語・概念である。外食の他に、家庭料理の場合もある[2]

 

『最初に登場したのは1985年とされる[4]。フリーライター田沢竜次が雑誌『angle』に連載した記事をもとに、『東京グルメ通信 B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)が刊行された。そして1986年に文春文庫ビジュアル版田沢竜次もメインライターとして参加した『B級グルメ』シリーズが刊行され、この用語と概念が広がった。』 

 

B級グルメ - Wikipedia

 

らしい。

なんとその軽薄で作為的な響きとは裏腹に、四半世紀を有に超えるキャリアを持っていいたという。

しかも85年に出てきて一年も立たずに使われるようになった単語だという。

 

ただ、ほんとうの意味でこの単語が定着し始めたのはどう考えても、ここ10-15年といったところだろう。

別のネットの記事を引用すると、

 

B級グルメによる地域振興にも詳しい新潟大学・田村秀教授は、「街おこしのネタとして、(B級グルメを)掘り起こそうという動きがある」として、こう指摘する。

「実は1990年代にも各地では小規模なイベントはありました。今の盛り上がりは2006年にあった『B-1グランプリ』が火付け。地元では当たり前すぎた料理だったのが、実は、地元をPRする有効な資源ということに気づいた。温故知新というわけでしょうか、伝統的な料理が見直されているようです」』

 

(地元の名物「B級グルメ」 一大ブームになった理由 https://www.j-cast.com/2009/11/25054663.html

 ということだ。やはり、単語として陳腐化するに至ったのはごく最近の言葉ということだ。しかしながら、85年にこの単語が誕生したとして、20年以上の期間を開けたあと、いかにしてこれほどまでのムーブメントになったのかまではわからない。

 

そして、最もよくわからないのは、こと”B級グルメ”の火付け役とされる「B-1グランプリ」の主張だ。

 

『B-1グランプリが「B級グルメの日本一を決めているイベント」と思われていることでしょう。しかし、B-1グランプリはいわゆるB級グルメとは関係ありません。』 

 

 B級グルメB-1グランプリ 

 https://b-1grandprix.com/%EF%BD%82%E7%B4%9A%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%81%A8%EF%BD%82-%EF%BC%91%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA/

 

驚くべきことに、火付け役とされた「B-1グランプリ」はB級グルメと関係がないイベントだと主張しているのだ。

 

 B-1グランプリのBはブランドのB』 

 であり、

現在は「B級グルメ」「ご当地B級グルメ」の企画についてのご協力は全てお断りしています。』 

 のだという。

 

近頃は”B級グルメ”という単語と”B-1グランプリ”という単語を引き離そうとしているらしい。

しかしながら、もともと意味の確立された”B級グルメ”という単語に乗っかりながら(記事内でも80年代のブームに触れている)無関係だと言いはるのは無理があるのではないだろうか。

思ったより言い訳がましいというか、やたらとしたたかというか。

 

何れにせよ、この単語の持つ独特の不快感の一端がわかった気がする。

単語の持つセルフイメージとその実態の間に乖離があり、定義が不明瞭にも関わらず声高に喧伝されてしまったがゆえに、なんとも浮ついた空虚さと、反比例するかのような差し出がましさみたいなものが感じ取れてしまうのではないか。

 

ここまで書き上げたとい頃で、単純に鼻につくビジネスの臭い、そして、”B級”という相対的な表現の裏にある、都市中心主義が気に食わないのが一番の要員だという思いが突如として去来したが、バイト中の1時間の妄想と、文字に起こす1時間半がすべて水泡に帰すのは避けたいので、気が付かなかったふりをする。